正しさのどれいです

毒親育ちで発狂してる思考を垂れ流す場所だよ

これが躁鬱かー

調子良いかなーとか思ったらマジで死のうかと思ったり、

今日は気分の上下がやたら激しい。

正直最近はそこまで自殺願望みたいなのはなかったので

久しぶりの感覚だったりする。

 

昨日情報のインプットとアウトプットのバランスが悪いと鬱になる、

というような記事を書いたのだけど、

実際昨日今日とインプットを減らしてアウトプットを増やしている。

昨日は寝る前に絵を描いたり日記を書いたりしたし、

このブログを書いているのもそう。

生産性のある作業を少し増やしたり、風呂で歌ったりもした。

 

とにかく情報を受け取る(インプット)を減らして

外に出す(アウトプット)を増やしたんだけど、

それで今日は久しぶりの自殺願望である。

 

とはいえ、人間には好転反応というものがあるので、

さほど悲観しているわけではない。

実際私はゲームや漫画、インターネットなどで

毎日異常な量のインプットを繰り返してきたので、

情報中毒になっている自覚はある。

 

脳は新しい情報を求めてドーパミンを出すそうなので、

実際に情報のインプットには依存性、中毒性はあるのだ。

だからやる事がないとついインターネットやゲームに走ってしまう。

 

まぁなので、情報受け取りに中毒状態になっている私が

インプットをやめると拒絶反応が出るのは当然なのだ。

アル中や重度の喫煙者が酒やタバコをやめると

ドーパミン不足で自殺願望が出たりするというのと同じ。

 

別に何かを摂取しなくても、私の母はパチンコ依存症だった。

インターネットも然り、ドーパミンが過剰に分泌されるものには依存性があるのだ。

 

私は最近、1日12時間以上パソコンに向かってインプットをしてたので、

やめたらそりゃ拒絶反応が出るのは仕方ないと思っておる。

脳が悲鳴をあげるのだ、ドーパミンが足りねー!!って。

 

…………と思いたい。

いや好転反応じゃなかったら最悪だしね?

せっかくアウトプット増やそう!と決めたのにいきなり

重めの自殺願望と鬱を発症して、幸先悪いったらありゃしない。

 

一応、大丈夫だとは思っている。

例えば私は地元に帰ると自殺願望を発症する事が多いのだが、

これは突然インプットが減ってアウトプットが増えた弊害だと思ってる。

地元に帰ると家族と話したり出かけたり友達と会ったり、

パソコンに向かう時間が大幅に減るので、

かなり健全な人間らしい生活に戻るのだ。

 

すると不思議な事に、ひどい鬱を発症したり、

ものすごく些細な事でキレやすくなったりする。

実際、一人暮らししてる時は自殺願望はほとんど湧いてこない。

漠然と虚しさを感じてはいるが。

 

重い自殺願望を感じたり、ストレスを感じるのは

なぜか地元に帰ってパソコンによるインプット時間が減った時なのだ。

 

ちなみに人生で一番最初の鬱を発症したのは、

1年ほど引きこもりで一人暮らしを続けた後、就職して働き始めた直後である。

引きこもりで一人暮らししてる時は過剰なインプット漬けの毎日で、

就職した後は当然それが改善された。

会社でゲームやインターネットをやれるわけがないので当たり前だが。

人と話す機会も100倍くらいに増えた。

 

すると、なぜか鬱になった。

これが人生最初の鬱病だった。

 

そう、毎回、不思議とインプットが減って、アウトプットが増えた時に

私は鬱を発症するのだ。

まぁだから好転反応として、今回自殺願望を発症したのは

仕方ないのかなと思っている。

 

実際、こういう時、半月ほどは辛いが、その後は安定する。

就職した時も、すぐに慣れて鬱病は驚くほどあっさり改善された。

 

アル中治療や禁煙でも、最初の2週間ほどが一番つらいというので、

これはまぁ好転反応あるあるなのだろう。

依存症の人間は、脳がドーパミンを分泌しにくくなっているので、

その状態に慣れるのに時間がかかるのだ。

 

というわけで、この調子でアウトプットを増やして

インプットをどんどん減らしていこうと思う。

このブログを今後も書いていくかどうかはわからないけど、

まぁ気が向いたら続けていきたい。

 

少なくとも自分の気持ちを形にして表現するのは

意味がある行為だと思うし、

実際、こうして「好転反応に違いない、昔もこういう事があった」と

書いてみると、なるほど間違いないと思えるようになった。

 

ちなみに読み直しや書き直しは、しない。

閲覧者なんていないと思うし、いたとしても関係ない。

これは純粋に自分の思考や感情を垂れ流す場として利用したいので、

誰かの感情じゃなく自分の感情のみを優先したい。

 

じゃあ何でこれを非公開じゃなく公開にしてるかと言うと、

「誰かに読まれるかもしれない」ものを

「雑に」

「適当に」

しておく訓練だ。

 

前回の記事で書いたけど、私はLINEのメッセージを送るのに

1時間とか2時間とか平気で時間をかけてしまう。

良い文章になっているかどうか、ものすごく考えてしまうのだ。

 

こんな奴はそりゃ病むわ、と自分でも思う。

まぁ相手にもよるので、雑に送る事もあるけど。

 

とにかく、クオリティの低い文章を世の中に公開するという行為自体に

意味があると思っているので、

このブログはクソみたいな内容を書き直さずそのまま投稿する。

 

実は今もこの記事も過去記事もチェックして修正したくて

ウズウズしているのだが、それでも読み直す事はしない。

文章を読み直す行為は、もはや情報のインプットになってしまうから。

あくまでここは文章を吐き出す、アウトプットの場にしなければ意味がないのだ。

 

というわけで、今日も満足のいくクソ記事が書けた。

少しでもこれが良い自分の状態につながると良いなと思ってる。

一応、繋がるだろうと希望は持っているつもり。

クソ記事を書きたくなった

ぶっちゃけこのブログ完全に放置してたけど、

色々思う所あってまた書いてみる事にした。

まぁ1,2記事だけ書いて更新停止してるクソブログなんて腐るほどあるよね。

 

何で書こうと思ったかと言うと、アウトプットの場が欲しかったから。

私は昔からメンタルが強い方ではなかったけど、

一人暮らしをすると毎回鬱病になってる。

人生で2回一人暮らししたけど2回とも鬱になった。

 

1回目の時は辛いって言って実家に帰ったんだけどね。

今回はもう5年一人暮らししてるけど、

ずーーーっと鬱っぽいままで全然治らない。

瞑想だの運動だのインターネット絶ちだの色々試してるんだけど、

結局4年くらい鬱が良くならず停滞してる。

フリーランスで自宅仕事だけど、その仕事もちゃんと出来てない。

 

で、インプットばかりだと鬱になりやすいって説があって、

ここをアウトプットの場として再利用しようかなと思った。

 

インプットっていうのは、ネット見たり漫画読んだりゲームしたりっていう、

まぁ脳に情報を「入れる」活動の事ね。

アウトプットって言うのは、こうやって文章書いたり

人と話したり自分の考えや意見を「出す」活動の事。

インで入れる、アウトで出すだからわかりやすい。

 

で、私が一人暮らしだと鬱になってるのは、

圧倒的に「出す」活動が足りなくなってる所が大きいんじゃないかと。

さっきも言ったように仕事がフリーランスで自宅で出来る事だから、

元々人と話す機会がめちゃくちゃ少ない。

それでも家族がいる時はアウトプットせざるを得ない場面があるけど、

一人暮らしだと必要最低限の会話すらないから、本当に自分を出す事がなくなる。

 

しかも今は地元を離れて東京に住んでるんだけど、東京に友達が全くいない。

地元に住んでた時は飲み友達くらいは居たのだけど。

それも大きかったんじゃないかと思う。

 

人と交流しないとどうなるか?

と言うと、必然的にネット見たり漫画読んだりと言った

「インプット」の機会が大幅に増える。

他にやる事ないし。

 

そうなると、人の活動をずーっと見てるだけで、

自分の活動は出さないだけの受動的な人生を永遠に続ける事になるわけだ。

 

この受動的な状態ってのが、すげー良くないのかなと思う。

一日中誰かの人生を垣間見てるのに、

自分の人生はそれを見てるだけで実質何もないのだ。

たくさん意見を出してる人を見続けて、自分は何も発しないのだ。

これって自己肯定感がクソほど下がるんじゃないかなと。

 

もちろん誰でも人と交流すればいいってものじゃなく、

悪口ばかり言ってきたり否定ばかりする相手と交流すると、

それはそれで自己肯定感が下がるから、

良くない相手とは距離を置く事も大事だけど。

 

まぁよほど酷い人間じゃなければ、

話す機会を増やすというのは基本的にはプラスでしかないはず。

 

とはいえ話すだけじゃなく、日記を書くだけでも結構いいらしい。

だからとりあえず、日記ではないけど、

ここに自分の脳内思考を垂れ流す場所として使おうと思ったわけだ。

文章の読み直しはしない。

書き直しもしない。

 

思うに、自分の文章を何度も何度も読み直して書き直して、

とやっている状態は、もはやそれはインプットになると思う。

私はとにかく人の目が気になる性格なので、

例えばLINEやメ-ルのやり取りなどでも何度も推敲して

失礼がないか誤字脱字がないかチェックして、

問題ないと判断できた場合のみ送信する。

 

ただメンタル強者と話してて思うけど、彼らは文章が雑である事が多い。

誤字もあるし、失礼な事も平気で言う。

私じゃ無理だ。

必ず読み直してから送るし、ひどい時はLINEで2時間以上かけて書いた

文章をチェックして結局全部消して送らなかったりする。

 

「この文章は上手くいかなかった、消そう」

となる。

 

前にアダルトチルドレンでメンヘラの人とLINEのやり取りをした事があるが、

その人に私が「いや~このメッセージ5行なのに1時間半かけて書いたんですよ。

頭おかしいですよねHAHAHA」みたいに言ったら、

その人は次の返信(7行程度)を「私は半日かけましたけど」と言っていた。

 

何と言うか、このエピソードを思い出しただけで、

私もその人も、「こんな性格じゃ病んで当然だなぁ」と思う。

 

仕事のやり取りなら別だが、そうでないLINEなんて普通は雑に返信するものだ。

5行程度のメッセージに、2時間も5時間もかけてたら、

そりゃかえって疲労してしまう。

 

で、話を戻すけど、やっぱりその「読み直し」や「チェック」という行為自体が

もはやアウトプットじゃなく「インプット」になってると思うんだよね。

 

会話で例えるなら、文章チェックって、

自分が話した内容を録音して聞き直すような行為でしょ。

それは「情報を自分から出す」んじゃなくて、

「情報を自分に入れる」行為でしかないなーと。

 

だから数行のメッセージに何時間もかけてチェックして書く行為は、

結果としてインプットを増やしてるだけでメンタルに良くないのかなーと。

 

だから当然この記事も、読み直しはしない方がいいと思ってる。

閲覧者の事を考えたら最低の行為なんだけどね。

読みやすさガン無視で、自分の思考垂れ流してるだけだし。

文法もおかしいし、重複表現とかガンガンしてると思う。

 

けど、それを気にして読み直しやチェックを始めたら、

それはもうアウトプットではなくインプットになってしまうから、

それだと何の為に記事を書いてるのかわからない。

 

人と話す時、自分が話した内容を聞き直す事は出来ないよね?

口から出てしまった事は、取り返しがつかない。

もし失礼な事を言ってしまったとしても、無かった事にはできない。

せいぜいできるのは謝る事くらい。

 

でも、だからこそ「会話」という行為は

自分の本来のアウトプットになるんだと思う。

 

そうそう、TwitterやインスタなどのSNS

メンタルに悪いとよく言われてるんだけど、

どうも積極的交流を取る人間はそこまで幸福度が低くないらしい。

 

消極的に、受動的にSNSを利用する人間ほど、

利用時間に比例して幸福度が低くなるんだとか。

私はこれもインプットが多すぎるせいだと思ってる。

SNSで積極的に交流する人間は、アウトプットが多いという事だもんね。

 

ちなみに言うまでもないけど、私はSNSでも誰とも交流しない。

こういう人間が不幸になるというのは、まぁ納得がいく。

 

そういうわけなんで、この記事が閲覧者にちっとも優しくないゴミみてえな内容なのは百も承知の上で、このまま公開しようと思う。

というかどうせ誰も読んでないからいいんだけど。

むしろ誰も読まない記事のチェックと推敲をするという行為の方がよほど虚しい。

 

ここは俺の日記帳!という精神で。

さすがに日記の書き直しはしないからなあ…

ちなみにこのブログだけじゃなく、

今日は一応寝る前にノートとシャーペンで日記も書こうと思う。

PCじゃなく、紙とペンで文章を書くのは良いらしいので。

 

他ブログで、インプット1:アウトプット5くらいの割合がいいって

言ってる人いたけど、さすがにそれは難しいよな……と思いつつ、

ただそれなら確かに鬱にならないだろうな、とは思った。

 

まぁ少しずつバランスを変えていきたい。以上。

あー今すぐ鬱治んねーかなーマジで。

成功体験で自己肯定感や自尊心が高まるなんてウソだよね

私は自己肯定感が低い。

 
人に評価されないと不安だ。
誰かが自分を嘲笑っていないか、いつも警戒し、

何事も完璧でないと価値がないと、恐れながら生きている。
 
疲れる。
 
 
自己肯定感とは、自尊心とも言い、
自分で自分を尊び、肯定してやる事。
しかしこれが、すごーく難しい。
 
というか私は、そんなに自分を尊い存在だと思えない。
 
だから、他人も自分を尊んでくれないと感じてしまう。
能力や実績で、「君はすごい」と評価された時だけ、
一瞬の安心を手に入れられるが、結局、すぐに不安が押し寄せてくる。
 
 
 
こんなどん底の自尊心しか持ってない私だけど、成功体験は、人より多かった。
 
成績は学年一番で力もあって足も速かったから、割と人からうらやましがられた。
だから何かと言われると、何もない。
ただわかるのは、成功体験の数が、自尊心とは全く関係ないって事だ。
 
 
 
 
Googleなどで調べると、
「成功体験を重ねましょう!そうすれば自尊心は高まります!」
なんて書かれた記事がワンサカ見つかる。
 
 
 
いやいや。
ないない。
 
 
 

成功体験が健全な自尊心を育てるならば、
私はもっと自分を大好き、自分サイコーでいられただろうよ。
 

だがあいにく私は病的な完璧主義者で、
能力をどんなに褒められても苦しく辛く、
悩みに悩んで自殺願望にまみれ、
昔は心療内科やカウンセリング、抗うつ剤の世話になっていた。
(今はやや回復したが)
 
 
 
学術的には、こういう人って、大抵、親に問題がある場合が多いらしい。
 
で、私も例にもれず、いわゆるアダルトチルドレンで、両親は大変な毒親だった。
例を挙げる。
 
・夫婦仲は愛情ゼロ、ギスギス
ギャンブル依存症でバカでかい借金
アルコール依存症
・日常的な暴力
・私がテストで100点を取れないとキレる(95点でもふざけるなと怒る)
・テストはクラス一番でないと説教(二番以下はクズ扱い)
私の貯金箱からお金を盗み、ギャンブルに注ぎ込む
(おじいちゃんおばあちゃんからもらったお年玉を使わず貯金していたのに、
それを盗んでパチンコに…)
 
上はほんの一部で、もっとひどいエピソードは大量にある。
別に両親の悪口を書きたいわけではないが、全部事実なので、どうしようもない。
客観的に見て、まぁ最底辺の人間だ、こいつらは。
 
だが私は不思議な事に、親が好きだった。
ザコンだったと思う。
お金を盗まれてパチンコされたり、テストの点数でも手酷く叱られたのに、
母を好きだった。
 
これが子供の怖い所だが、私は自分の親を、普通だと思っていた。
テストは95点で怒られるのが当たり前だと思っていたし、
学年一番じゃないとクズ扱いで罵倒されたが、それを不自然だと思ってなかった。
 
 
子供は世間を知らないから、親を狂人と判断できない。
何も悪い事をしてないのに怒鳴られても、
「お父さんお母さんが僕を怒るんだから、僕が悪いんだ」
って思う。
 
 
当時、お金を盗まれた事を、私は親に言えなかった。
「お母さん、俺のお金盗んだ?」と尋ねる事が出来なかった。
証拠もないのに親を疑うのか、って怒鳴られるのが確実だったからね。

貯金してたお年玉が何万円消えても、私は我慢するしかなかった。
母はそのお金でパチンコをしていた。
今ならわかる。最低の女だ。

だけど昔はわからなかった。
子供の頃はそういう理不尽に対して、我慢するのが当たり前だと思っていた。
そこに、何の疑問も抱いてなかった。
 

当時、私は
父と母が口汚く喧嘩して罵り合うのが、辛くて悲しくて、
両親が仲良くなってくれたら嬉しいと純粋に願っていたが、
一度も親を憎いと思った事はなかった。
彼らは喧嘩こそすれ、立派な人間なのだと信じ切っていた。
 
自分は未熟だから、「お前はダメな奴だ」と叱られるのだと思っていた。
 
 

だけど、罵倒されてばかり、酷い事を我慢してばかりの人生を過ごすと、
子供は少しずつ価値観が狂っていく。

私のように、親に怒られてばかりで、「自分が間違ってるんだ」と
思い込んで成長した子供がどうなるかというと、
 
 
 
自尊心の全くない人間になる。
 
 
 
成功体験を重ねたって、それを大好きな親に否定され続けたら、
「自分は尊い存在だ」なんて思えるわけがない。
 
 
テストで100点をたくさん取っても、一番褒めて欲しい人に褒めてもらえなければ、
それは成功体験にならない。
 

そして、自分を肯定できないまま成長すると、人間は最終的にどうなるか?
 
 
 
他人からの肯定を求めるようになる。
 
 
 
他人に認められているうちは、不安を感じずにすむからだ。
私もテストが95点だと罵倒されたが、100点では、さすがに叱られた事はない。
親に愛されるには、100点を取るしかなかったのだ。
 
だから私のような人間は、人に褒められる事ばかり考えるようになる。
依存症のように、どんな時でも100点を取ろうとする。
自分で自分を尊んでやれなくても、
人に「すごい」と言われれば、その瞬間だけは満たされるからだ。
 
 
私の完璧主義者の根幹にあるのは、
歪んだ親に育てられた歪み切った「100点依存症」だ。
 
 

でも、他人から肯定され続ける事なんて、出来るだろうか?
すべての局面で、100点を取るなんて、出来るだろうか?
 
不可能だ。
神にならない限り、人間は100点のままではいられない。
 

だが私は気が付くと、人の顔色ばかり窺い、
いつしか、どうすれば人に好かれるか、どうすれば嫌われないで済むか、
いつも必死で考えて、へりくだってばかりの、つまらない人間になっていた。
 
 
 
話を戻そう。 
 
つまり「成功体験で自尊心が高まる」なんて、
ネットで見かける話、あれは嘘だと断言できる。
100点を取る体験なんて、いくら重ねても意味なくない? 

本物の自己肯定感って、『俺は能力が高い』と思う事ではないと思う。
それなら私は出来ている。
私は仕事もできるし、能力は高いよ。意味ないけど。
 
人生を豊かにする、ただしい自己肯定感とは、
『能力に関係なく、自分を尊いと思える』事だ。
そこに成功とか失敗は関係ない。
 
私みたいに、「能力がないとお前はクズだ」という扱いを数十年受け続けると、
なかなか、そういう風に考える事は難しいが……
 
 
そもそも「成功体験」という言葉自体、よくないと思うんだよな。
一般的に、「成功」って受験で受かったり、勝負に勝ったりする事を指すから。
でもそういう体験は、一時的な快楽しか生み出さない。
私は身をもって知ってる。
 
いつも思うんだよ。
もしテストで0点を取っても、職場で大失敗しても、
「俺は最高の人間だ!」と思えれば、きっと私は最強になれるって。
 
 
 
結局、やっぱり、
 
「成功しなくても良い」
「成功体験なんていらない」
と思う事が一番大切なんだ、という話。
皆知ってると思うけど、
なぜか「成功体験で自尊心が高まる」系の記事が多いんだよね……
 
 
 
 
けど私は、一応、以前よりは、自殺しそうな感情を抑えられるようになった。
こんなブログをわざわざ読んでいる人は、
きっと、自尊心を高めたいという欲求があるんじゃないかと思うので、
下記に、私なりに「これは良い」と思った、そのやり方を記しておきます。
当然、成功体験などとは何の関係もない方法です) 
 
 
 
そもそも私が親から受けてきたのは、
心理学における「条件付きの愛」というものだ。
 
【条件付きの愛】とは、ひと言で言うと
「◯◯したら愛してあげる」
「◯◯しないと愛してあげない」
などと条件をつけて、愛をエサに相手をコントロールする姿勢です。
「ハグ・抱っこなどの肉体的な接触」や「賞賛や褒め言葉、ねぎらいや信頼感などの精神的な安心感」を受け取ることなく育てられた人が、
愛は条件をクリアしないと受け取れないもの
自分以外の存在になれないと愛されない
と感じてしまい、愛を受け取ること自体をあきらめたり、逆に強い依存傾向を示す場合もあるのがこの【条件付きの愛】にコントロールされてしまった方の特徴なのです。

 


 
私は親から罵倒ばかり受けてきた。
テストで100点を取っても無言、
95点だと「勉強を馬鹿にしてる」「人生をなめてる」とか言われたぞ。
 
そんな私は今、75点くらいの人生を歩んでいる。
客観的に見て、別に不幸ではない。
 
ただ、私が、75点で幸せと思えるかというと……もちろんNOだ。
95点でクソ扱いされてきたのに、75点で自分を尊いと思えるわけがない。
 
当然、親は、私の仕事や生き方をさんざん否定してきた。
彼らは、公務員とか会社員以外の仕事に就くことを許さない親だったからね。
 
 
 
案の定、一時期、私は発狂しそうなほど悩んで坑鬱剤の世話になり、
毎日自殺願望を抑えるのに必死だった。

で、それが何とか楽になったのは……
 
親を異常者だと認知して、それを周囲に、きちんと話してからだった。
 
 
 
まずは狂った洗脳教育を受けたせいで、
自尊心が人より極端に低い事を認知する。
 
そこから、
「親に失敗作と思われても、自分の価値はなくならない」
「自分は生きる価値がある」
と、そういう当たり前の事を、しっかり自分に言い聞かせる。
そして、そういう事を、誰でもいいから人に話す
自殺しか考えなかった私は、それから数ヶ月たって、ようやく、少しずつ楽になっていった。
(生活は前と変わってないにも関わらず)

親を狂人と認知する事って本当大事。
親からの愛情の薄さや、
不当に受けた低い評価を笑い飛ばせるようになる事は大きい。
 
あんな狂人に褒められたくて、必死で努力していた私の子供時代は、本当に哀れだった。
あの親は、人を褒める器官が備わってない、異常生物だったのだ。
 
母は「父と結婚するんじゃなかった、息子のお前が出来なければ結婚してなかった」
父は「母はだらしない最低の人間だ、俺が低賃金の会社で働いてるから、あんな嫁しか見つけられなかった」
と愚痴ばかりこぼしていて、
誰かを褒めているのを聞いた事がない。
 
思い返せば、彼らも哀れな人間だ。
(私の両親も、犯罪者などの酷い毒親に育てられている。彼らも被害者なのだ)
 
 
 
 
もし自尊心が低い、自己肯定感が低くて悩んでいる方は、
成功体験なんて求めず、思い返してみてほしい。
あなたを貶めたり、罵倒したりしてきた人間は、本当にマトモな人間か?という事を。
 
親にしろ、それ以外にしろ、狂人、異常者に該当するクズはこの世にたくさんいる
そして、そういう奴らに、
あなたの価値を貶められたとしても、それを気にする事はない。
あなたはそんな連中より遥かに優しく、価値のある人間だ。
 
私は他人の金を盗んでパチンコしたりしないし、
アルコール中毒で怒鳴り散らしたりもしない。
無神経に人を傷付けるような事を言ったりする人間は最低だと思っている。
両親より、よっぽどマトモな人間だ。
それどころか、私は多くの人間より、遥かに優しいつもりだ。
 
ただ、優しいからこそ、親を「マトモ」と思い、貶められた自分に悩み続けてしまった。
 
私がもっと図々しい人間だったら、
「95点のテストで何が悪いんだカスが。
ていうか、テメェ俺の金盗んだろババア!!頭おかしいんじゃねぇのか!?」
とキレ散らかして、親の評価に縛られず、ノビノビ生きられた事のにね。
 
 
だが私は生憎、クズ親を「クズ」と思えない、優しい人間だった。
そう。
私は優れた、優しい、素晴らしい人間だったのだ。
私は罵倒される理由などない、素晴らしい人間だったのである。
 
そしてそれは、自尊心の低い事に悩むすべての人に、当てはまるはず。
 
幼い頃、あなたの能力を罵倒したり嘲笑ったりした人間は、
100%クズなので、そいつらは見下しても全然かまわない。
 
優しい人は、そういう人間を「見下す事」に罪悪感を覚え、
「人を悪く言うなんて、私は最低の人間なんだ」と思い悩んだりする。
私も昔はそういう所があった。
 
が、そういう考え方が、一番まずい。
 
儒教の思想が根底に備わっている日本人は、「親を悪く言う」事を罪としがちだが、
それは人の思考を捻じ曲げる危険な価値観だ。
明らかに、現代社会には適していない。
 
 

「クズ」といえる人間は、現実にたくさん存在する。
そして、あなたの親がそうである可能性は、残念ながら、さほど低くない。
石を投げればクズに当たるくらい、彼らはこの国に、ありふれている。
 
儒教なんかクソくらえ。
2000年以上前の学問なんて、今は参考にする理由がない。
 
「あの人はクズだ。だから、その人に下された私への不当な評価は誤りだ。
むしろそれに耐えてきた自分って超素晴らしい人間だな?
 
私は、この「開き直り」が、自尊心を取り戻す唯一の方法であると思っている。
 
「今まで俺に悪口言ってきた奴ら、だっせえ!我慢してきた俺はすごいわ!!尊いわ!!」
 
罵倒されてきた人は、この理念をニュートラルに絶対置くべきだよ。
少なくとも、成功体験なんかにすがるべきではない。
 
 
たとえばあなたが、連続殺人犯に、「お前はひどい奴だ」と言われたら、傷付くだろうか?
「何言ってるんだこいつは?お前の方がよほどひどい奴じゃないか」
と思うだけだろう。
腹は立つだろうが、自尊心を傷付けられたりはしないはずだ。
 
でも逆に、尊敬する人間に、「お前はクズだ」と言われたら、自尊心は大きく傷付く。
これは絶対にキツイ。
 
で、私が歪んだ価値観を持ってしまったのは、親を尊敬し、愛していたからだ。
「あんな頭のおかしい人間に何言われても関係ねぇよ!」
と開き直れなかった。
 
まずは、そんな奴らはゴミだ、と開き直る処から始めよう。
 
私は親をゴミと認識してから、だいぶ楽になった。
友達にも、「え、その親クズじゃん。よく耐えられたね」と言われたりする事で、
少しずつ自尊心を取り戻していった。(良くなるのに数ヶ月はかかったが……)
 
 
 
生まれた時から自己肯定感が低い人間なんて、私はいないと思っている。
幼少期に、
「愛情を受けられなかった」
「過度の罵倒、否定をされた」
「人に褒められた事がない」
などの要素が重なる事で、自分で自分を愛せなくなるのだと思う。
 
人から「お前は価値のない人間だ」という扱いを受けて、
それを素直に「僕は価値がないんだ」と受け取ってしまう事が、悲劇の始まり。だ
 
 
大前提として、他人を貶めるような事をいう人間はクズだ。
それは親であろうと関係ない。
クズはクズだ。
傷付き思い悩みやすい人間は、まず、それを認識しなくてはならない。
 
「他人をクズだと決め付けるなんて良くない事だ」
なんて優しい考え方は危険だ。
私も昔はそうだったが、過度に善人であろうとする行為は、この国で生きていくには辛すぎる。
 
なぜなら、他人は平然と、あなたを「クズ」と決め付けてくるからだ。
あなたが他人をクズだと思わないようにしても、他人はあなたを簡単に罵る。
あなたが手を出さなくても、相手はあなたの顔を殴ってくるのだ。
私は親に服従していたが、親は私を殴った。
つまり、そういう事だ。
 
 
 
クズをクズと認識する。
クズに罵られても、あなたの価値は微塵も揺らがない事を認識する。
そのクズと違い、あなたは人を罵らない分、人としての価値は高い。
 
それを自分で反芻し、人に話したりして、認識を強めていこう。
少しは、自分を尊い存在だと思えないだろうか。
何度でも言うが、あなたを罵った、そのクズどもよりは、あなたは尊い存在だ。
少なくとも、私の親よりは尊い存在だ。
 
 
長年ついたミジメな人格は、そう簡単には治らない。
今でも私は過剰に他人の評価を気にする、完璧主義の権化みたいな人間だ。
人に嫌われないようにビクビクしている。
ただ、それでも、前よりはマシになった。
 
誰に人格否定されようと、私は人を罵るようなクズよりは
正しく生きていると、毎日ちゃんと認識する事で、
私は今でも、少しずつ前に進んでいると思っている。
 
人は習慣化しないと、すぐに忘れてしまう。
もしこの記事を読んで、少しでも自己肯定感を高められそうだと思った人は、
「自分を否定した人間より、誰も否定しない自分は素晴らしい」と、毎日、思うようにしてみてほしい。
 
あなたは被害者だ。
凶悪犯罪者に腕を切られて、腕が動かなくなったとしても、それはあなたの過失ではない。
犯罪者がクズだったのが悪い。
そしてあなたは幼い頃、凶悪犯罪者に、心を傷付けられたのである。
それで、心がうまく動かなくなったのだ。
それを認識しながら生きていく事で、傷は少しずつ癒えるはずだ。
少なくとも、私はそう思い、日々を生きている。
 
 
 
 
ちなみに、最後に付け加えておくと、私は今、親とは関係良好だ。
たまに、一緒に映画や買い物に行ったりする程度には。
親もさすがに今は、ギャンブルから足を洗っているし、反省もしているので、
私も憎悪ばかりしているわけではない。
「彼らはクズだった」と事実を正しく認識しているだけだ。
 
尊敬できない親は、尊敬してはいけない。
こんな当たり前の事が、もっと当然だといわれる社会になって欲しいものだと思う。